『私が発症に至るまで②学童期前半』
さて、小学校へ入学してからのお話です。このライフステージではどんな子供だったかな?
小学校低学年
小学校といえばまず給食ですよね。私の学校でも給食のときは牛乳がついてました。
私は牛乳で下痢をしてしまうタイプでした。乳糖不耐症ですね。
でも、別段、なにがなんでも飲まなきゃいけないという強制をされた覚えはありませんでしたが、頑張って飲んでいましたね。
単純に『お残しはいけない』という躾が身に付いていたのか、正直あまりハッキリ覚えてはいません。
そして飲んだらやっぱり下痢。
学校でのおトイレは職員用のトイレを無断で使っていました。
理由は、『下痢が恥ずかしいから』とかじゃなくて、『オバケが怖かった』んです……。
職員用トイレのすぐ近くには職員室があって、人の気配があったので、そこでないと怖くてトイレいけませんでした。
※大きくなったらホラー大好きになってるのにね。不思議。
それでも食が細いという点は変わっていたと思います。むしろ食欲は旺盛なほうでたくさん食べていたと記憶しています。
昼食後のトイレと、夜中の下痢は多かったですが、1日中下痢や腹痛が続く、ということはなかったです。
ただ、夜中に下痢をするときは猛烈な腹痛で、ずっとトイレから出られないほどのことはしばしばありました。
・そして口内炎。幼児期よりもずっとずっと、出来やすくなりました。小指の爪ほどのサイズのクレーターがしょっちゅう出来ていて、それも常に複数個。
ご飯モリモリ食べたいのに痛くて食べれない、なんてことはよくありました。
口唇ヘルペスにもよくなっていましたね。
・運動機能に関してはやはりスタミナもなく、バテてしまうし、登下校はとても憂鬱でした。ランドセルは重く、距離もそこそこに長い。
下校時、緩やかな真っ直ぐ伸びた長い坂道を見上げては、気が重くなったものです。現代でいうところの『ランドセル症候群』ですね。
・この頃、武道一家ということもあって私も武道をはじめました。
すぐに脇腹や胸は痛くなるし、とてもきつかったです。
父からははとにかく『情けない』、『みっともない』と言われ続けていました。
幼稚園児の頃と違い、小学生になると大人は『それなり』を求めてくるようになるものです。
もう『小学生なんだから』という、甘えを許さないスタンス、年並みの成長、そういうものを求められ、それに応えられる身体でもなかったため、遊びではない運動は大嫌いでしたね。
親の考えは、
『体力がない=運動量が足りない』
『鍛えまくれば虚弱は治る』
安直で間違った考えです。肥満であったり、生活習慣病の予備軍のような成人や、明らかに本当に運動まったくしない怠惰な生活をしていたのなら別です。
しかし、登下校や体育の授業でぐったりと疲れてしまったり、発熱をしてしまうような幼児が、『鍛えまくれば強くなる』、なんてことは成せるわけはありません。
栄養が足りていない、成長が遅い(個体差というレベル)、あるいはなにかしら他に要因があるのです。
運動すればするほど弱っていく身体中で鞭を打って良いわけは、ありません。
せめてもう少し様子をみて、年齢を重ねてから運動量を増やすべきことで、このライフステージで鍛えまくるなんてナンセンスもいいとこです。
・睡眠に関しては、まったく眠れないというほどのことはなかったです。ちゃんと寝れてはいました。でも、寝付きの悪さは酷いもので、寝付けるまでずいぶんと時間がかかって、長い夜を過ごしたものです。
寝起きは案外にスッキリしていて、親に起こされなくても自分で起きる子でした。
・風邪を引きやすく高熱になりやすいのも変わらず。
・陽の光への弱さは顕著になっていました。
・アトピー性皮膚炎は症状はほぼ落ち着きましたが、肌が弱いことに変わりはなく、湿疹ができやすかったですね。今でもですけど。
・小学1年生の頃は歯ミガキが下手くそでした。
初めてのカラーテスターで酷い結果だったのが子供なりにショックで、それから一生懸命にやるようになって、歯科の先生にいつも褒められるようになり、以降、虫歯なしが自慢でした。
クローン病を発症するまでは……。
乳歯が抜けて永久歯が生えてくるのも至って標準的だったので、体格のわりには歯の成長は普通だったと思います。
・その他地味に気になる体質として、虫刺されに弱い。とくに蚊。痒くなるだけじゃなくて、赤く腫れ上がってしまうんです。そしてずっと痕が残る。
他にも傷がとにかく化膿しやすい。ぐっじゅぐじゅ。
加えて治療が必要なレベルではありませんが血も結構止まりにくいほうで、小さな裂傷でもなかなか止まりますませんでした。これらは今でも変わってません。
虫刺されへの弱さ、化膿のしやすさ。このへんも免疫疾患であるクローン病の素因が現れてるように感じますね。
そして小学校に上がってからというもの、実は私はイジメられていました。
『イジメ』という言葉はその当時私の地元ではまだあまり一般的ではなく、『意地悪される』とか、『嫌がらせされる』とか、『からかわれる』とか、そういう表現でしたね。
どんなことをされたか、と言いますと、やはり体格のことですね。
ありていに『チビ』という言葉を多種多様な形で用いたdisりです。
殴られる、蹴られる、などのものはありませんでしたが、仲間外れにされる、なんてことはありました。
でもクラスメイトからはそれほど酷いものはなく、そういうことする子もいれば普通に仲良くしてくれる子、守ってくれる子もいました。
良くも悪くもまだ7歳程度ですからね。分別がないのは仕方のないのことです。
だって、私だって誰かをからかったりしてましたからね。
ただ、登下校中に『上級生』から嫌がらせをされていたことが後々の問題に発展するものでした。
走ってきてdisりと共に後ろから突き飛ばされたり、ランドセルにゴミを詰めて走って逃げたり、そういうことする上級生がいたのです。
幸か不幸か、私はめそめそするタイプではありませんでした。
ぶちギレて、怒鳴り散らし、追いかけ回していました。
しかしながら上級生は嫌がらせが上手なもので、大人たちにはバレませんし、追いかけ回しても追い付けません。
そして怒鳴り声を挙げながら追いかけ回してる私を見る通学路に立っている『保護者』の方たちは、子供の私からみても明らかに怪訝な顔をしていました。
そんな保護者たちは家庭でこう言うんです。
『あの子は頭がおかしいから関わるのをやめなさい』
って。
なんでそんなこと知ってるかって?
だって、子供だから学校で言うから。
「お母さんがこいつとは話すなって言ってたー!」
って。
そんなこんなで次第にクラス内でも『イジメ』といえる水準にまで発展することになっていきました。
小学校中学年
中学年の頃には、無視をされたり、仲間外れにされたり、給食抜きにされたり、そんなことがありました。イジメといえる水準と思えます。
やはり直接的な殴る蹴るなどはありませんし、落書きや物を隠されたりは多くはなかったと思います。
そんな中でも、全員が、というわけではありませんでした。優しい子というのはいるもので、先生がに報告(子供の言葉ではチクリ)したりして、学活ではクラス会議?みたいなことにはよくなっていました。
優しい子たちと、私のめげない気質、それらがあってイジメはそれほど加速しないで済んでいたかもしれません。
当時の友達には感謝です。
後に大人になってからそんな昔話を母にしたところ、
『知らなかった』『なんで相談しなかったのか』
と怒られたものです。
でも違うんです、恥ずかしかったとか、悩んでいたとか、そういう現代的な観念で相談するという発想がそもそもなかったんです。
だって、子供同士の問題ですから、親が介入するという考えはまるでなかったです。
学校でのことですから、子供たちと先生とで話し合うこと、そういう観念だったというのはハッキリ覚えてます。
・そんな学校環境で身体のほうは?と言いますと、
この頃は低学年の頃よりも食事はしっかりとれていたし、好き嫌いは完全になくなっていました。
大嫌いだったピーマンはむしろ好物になってました。
お菓子は好きでしたが、お菓子だけは1人では食べきれないことが多かったのであまり食べなかったですね。
でもマックやカップ麺なんかは大好きでした。
お腹のゆるさも相変わらず。ただ、低学年の頃よりかは下痢はしにくくなっていたと思います。
でも、下痢するときはやはり猛烈な腹痛を伴い、トイレからずっと出てこれないのは変わりませんでしたね。
・睡眠に関してもまったくの横ばい、大きな変化なし。
ただ悪ぅ~いことに、夜中に寝れなくて除夜灯の薄暗さの中で本を読んだりもしてたので、視力がガツン!と低下しました。
親に何度も暗いところで本を読むなと言われていましたが、守らないあたり子供ですね。
健康に関することはちゃんと言うこと聞くべきですね……。
・口内炎のほうも相変わらず。
・そして難儀なことに小学校3年生の春、花粉症を発症しました……。
みなさんも花粉症の辛さはよくご存知かと思いますので省きますが、とにかく酷かった!
花粉症になってからは肌荒れは一層悪化しましたね。
・体力も変わらず低く、貧弱で風邪を引きやすく高熱になるところも変わらず、体調を崩して遠足にいけなかったことも少なくありませんでした。
遠足途中で具合が悪くなって親に迎えにきてもらったこともありました。
体育の授業では疲れきり、とくに夏場、かつては『日射病』と呼ばれていた『熱中症』が酷かったです。
今よりもずっと気温が低かったのに、いつも朦朧としてました。当然、そんなシーズンはまともにご飯食べれませんでしたね。
紫外線に弱いのも変わることはないので皮膚は焼け赤くぶくぶくと腫れ、虫には喰われやはり赤く腫れ上がる、放課後友達と遊ぶのもお外ですから、ずーっと朦朧としてる状態で、公園で座り込んでました。
『帰れば?』ですよね、今思うと。なんで帰らなかったんだろうなぁ、ろくに遊べてもいないのに。
そんなこんなで夏の思い出なんて最悪としか言いようがありませんでしたね。
夏付近は体育のあとはたいがい保健室でした。授業中に保健室送りにならなかったのは、時代なのかな?あんまり覚えてませんが、授業にでることを強制されたような記憶はないです。
単に『授業はちゃんと受けるもん』そういう観念、そこに疑問を抱くような世代の社会ではなかった。それだけなのかなと思います。
授業中に保健室送りにならなかったのは、すぐに保健室に連れてくものではない時代だったからで、そこは今と昔との差異で風潮、文化で、誰が悪いわけでもないです。
先生方の対応としては、当時としてはとても優しいものだったと記憶しています。
担任の先生も養護教諭の先生も低学年の時も中学年の時も『身体の弱い子』ということで気にかけてくださっていました。
ありがたいことですね。
なんだかんだあっても、学校には恵まれていたと思います。
しかし家庭内や武道の稽古では変わらず、「疲れた」という発言は許されず、休むことも許されず、身体に鞭を打って生きるしかありませんでした。
学校の先生が飴なら家庭は鞭ですね。
疲れて昼寝でもしようものなら、『だらけてるから体力つかねぇんだ!』と叩き起こされたものです。
「こんなにも具合が悪いのに、なんで休むことが許されないのだろう」
そうした疑問は絶えずあり、憎いほどに納得のいかない理不尽さというものを強く覚えました。
・学校では委員会活動とかもやるようになって、生き物係や保健委員をやっていました。自分の身体のこともあって、健康・保健に関する関心は高くなっていきましたね。後の将来設計に繋がりました。
また、日本赤十字社の様々なボランティアや研修などにも参加していました。
あまりよく覚えていませんが、当時の担任の先生が日本赤十字社のなんかの団体に所属していた?とかで、希望する生徒たちに学外でそういうのに参加させてくれていましたね。
救護の研修、点字や手話の勉強、募金活動などなど。
点字や手話などは全部忘れてしまいましたけどね。
またそうした活動では他校との交流や、外国人の子供との交流もあり、宿泊研修では一緒に生活したりして、それらも良い刺激でした。
こうした経験が、私の中にある偏見や差別を取り払ってくれたと思っています。
こうした学童期前半。子供なり、子供ならではのとこともたくさんありましたが、それでも学校にいくのが嫌で不登校、なんてことにはならなかったのは幸いでしたね。
なんだかんだと嫌なことがあっても、学校という環境には恵まれていたほうなんだと思っています。
そして大きな変化が訪れるのはこの後、思春期というライフステージに入ってからです。
『私が発症に至るまで③学童期後半~思春期』に続きます。
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