今回は私個人の、私なりの人付き合いのマインドと処世術のお話です。
人それぞれ考え方も違いますし、環境も、知識も、経験も、価値観も、なにもかもが違って然り。千差万別なのがヒトであり個性ですから、このお話に正解はありません。ひとりひとりに正解があるはずです。
なのでここからのお話はあくまでも『きくらげメソッド』と思ってください。
病気は理解されない。それが大前提。そして他人に期待しない。
リアルでもSNSでも、理解されない苦しみ、愚痴、ときには健常者への過激で攻撃的な批判も見聞きします。
気持ちはわかります。私も1人のクローン病者として散々嫌なことを言われてきましたし、というか過去形でなく現在進行形だし、なかなか理解されないもので生きづらいものですよね。
でも、私は病気は他人に理解されない、それが大前提と思っていますし、そもそも他人に期待もしていません。
これはネガティブなようでポジティブな考え方なんですけど、
なんでか?って、単純なことなんですが、ゼロですらないマイナスくらいからのスタートと思っておけば、理解されなくてもノーダメージ、って考え方なんですよね。期待しないのも同じ。
なので言われても「あ、そう」くらいにしか感じません。
理解されないこと、気にかけてくれないこと、心配してくれないこと、そういう期待をそもそも最初から持たないでいれば、傷付くこともそうそうありません。
極端に感じるかもしれませんが、こうした考えに至るには理由がありまして、
たとえば子供を産めるのは自然では女性だけですよね?
男性にお産の大変さが、わかるはずありませんよね??
いかに知識で補おうと、いかに愛が深かろうと、経験することはできないのでまるっと気持ちのすべてを理解することなんてできません。
ましてや性別による思考や感情の違いだってありますから。
勿論、伴侶の男性はそれでも理解しようと努めなければなりませんよね。夫婦であり、家族なんですから。支え合わないといけませんよね。
でも、どれだけ努力しても、何%かな?20%?30%?
女にしかわからないこと、お産の経験あるママにしかわからないこと、有って当然ですよね。
理解できなくたって致し方ない。
ですからどこまで相手に求めるか、という話に戻るのですが、全部理解されなくても、理解しようと頑張ってくれたら、少しでも理解が深まってくれたら、嬉しいですよね。
でも相手が頑張るだけじゃダメなんですよね。自分からもなにが大変で何が辛いのか、会話を繰り返していかないと。それが相互理解。
お産という神聖な儀でも、理解されないくらいです。病気なんて経験者にしかわかりませんよ、って私は思ってます。経験者でも難しいくらい。
ましてや、家族ですらない学校や職場などですと尚更です。
けれども理解されないから仕方ないとか、理解してくれない奴ばかりでクズばっかとか、それでオシマイって話ではありません。
まず、理解されないこと前提で、理解してもらえるようマイナススタートでプラス1プラス1を積み重ねていく努力が、自分サイドには必要なことなんだと、思っています。
あとは相手次第ですが、なかなか理解されずに凹むこともあるでしょうけど、理解されない前提ならダメージも少ないというものです。くよくよしない。
身近な家族や特に親しい友人など
気にかけてくれる、気にかけてくれない、心配してくれる、心配してくれない。
ひとまず『心配』という感情でお話していきます。
心配って、『愛情半分、不信感半分』だと私は思っています。
というのも後半の不信感についてですが、
親は、子供が幼稚園デビューしたり、はじめてのお買い物したり、なにかと心配しますよね?
それは半分は愛情ですが、半分は子供の知性や性格やコミュニケーション能力を、まだ信じきれていないから、だから「大丈夫かな…」って心配になるんですよね(私の母親談)。
勿論、子供のそうした能力だけでなく、社会に対する不信感もありますよね、安心して送り出せる環境とは限らない。
信頼性がまだ低いから心配という感情は起きるのだと私も思います。
これを病気の場合にしてみますと、
医療技術、治療環境、経済状況、社会的立場、そして患者本人の病気への知識や経験、心の強さ、そうしたところが不安だから、不信感が拭えないから、だから心配するんだと思います。
その不信感から、心配する側はなにかできることがないか、必死で考え、患者に接します。
それがどれだけ的外れで、逆に傷付けてしまうような言動や行動であったとしても、患者のことを想っての行動であることは真実です。
ですから、的外れでむしろ迷惑なことをされたり言われたりしてムカつくことがあっても、傷付くことがあっても、一方的に相手を攻めたりするのは自分自身も相手を傷付ける行為になるので望ましくはなく、またひたすらに自分が傷付き塞ぎ混む必要も、どこにもないと思のです。
勿論、的外れなことではない正しいケアをしてくれたら一番何よりなことですが、それが出来ていないからといって相手を悪し様に言い過ぎるのはワガママと私は思っています。
じゃあどうやって付き合ったらいいの?
って、やっぱり対話を繰り返すしかないと思います。相互理解はこれに尽きます。
病気であれなんであれ、苦難苦辛その気持ちは当の本人しか持ち得ないもの。たとえ同病者であってもヒトが違えば思うことも違います。環境も違います。
それを察して理解してもらおうなんて、エスパーじゃあるまいし不可能なことです。
だからこそ、理解してもらうためにはたくさん対話を繰り返す必要があるのだと思います。
病人なんだから手放しで心配して優しくしてほしい、なんて甘えだと私は思っています。
逆に自分がなにかしら配慮する側になったとして、家族でも職場でもどこの付き合いでもいいですが、『余命宣告された人がいる』といったことがあった場合、なにをしてあげられますか?
私は、何も思い浮かびません。難病で手術も繰り返しましたし、死にかけたこともありますが、余命宣告されたことはありません。
心中察するに余りある。とても想像できたものじゃありません。
いたずらに慰めても「おまえに何がわかる!」と言われれば何も言えませんしできません。
やはり、『何か配慮する』のスタートは、言葉を交わすこと。自分がなにか話すというより、聞いてあげること。
今どんな気持ちか、なにが辛いか、なにをしてほしいか。
それだけのことでももしかしたら相手にとっては嬉しいことかもしれませんが、より寄り添うにはやはり対話した上で配慮してあげる、そうなります。
この場合、こちら側は『聞く』相手側は『話す』になりますよね。話す勇気も必要になります。
なにもしないで配慮してもらうなんて、土台無理なことと思います。
ただただ相手からもらうなんてこと、たとえ家族や友人でも、誕生日くらいしかありません。
社会も同様です。労働基準法の範囲内のことは得る資格はありますが、人と人ととのことは自分自身も努力が必要なんです。
勿論、パワハラやモラハラなんて論外ですよ。悪。
結局のところ、理解してもらうことも、心配してもらうことも、心配させないことも、信じてもらうことも、結果で証明して見せつけていくしかないのだと私は思っています。
結果で証明とは?
辛いことは辛いと言う、でもくよくよしすぎない、対話を諦めない姿を見せる、病気と戦っている姿を見せる、めげない姿をみせる、前向きな姿を見せる、社会に対してアプローチしてる姿を見せる、勉強している姿を見せる、病気をコントロールしている姿を見せる、回復していく様を見せる、なんなら手術痕さえ見せる。
こうした姿勢とその行いの結果。その有り様こそが最大の表現であり、説得力があり、ありのままの姿で、ひたむきに努力している様は人を必ず惹き付け、苦しい環境でも笑ってる姿は親しい人を安心させるのです。安心できれば、信じてもらえるものと思います。
そう簡単にそんなことできりゃ苦労はない。そう感じるのも勿論わかります。
ですが、相手から動くのではなく自分から動く。『主体的』であること。これがいつだって自分を変え相手を変えていく最大の武器なのだと私は思います。
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