モラルと健康を同じレールに乗せない考え方・きくらげメソッド

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モラルと健康を同じレールに乗せない考え方・きくらげメソッド

今回は小休憩ということで、健康そのものではなく、健康を語るときに混ざりやすい“モラル”の話です。

健康と直接的には関係がない、けれども社会と健康は密着してるんだな、ではどう切り分けてみるべきかな、
『健康をどう捉えるか・生活の中でどう判断するか』
そんな物事の見方のお話をしたいと思います。

きくらげ個人の思想論ともいえるものなので、一般論ではありません。
考え方の参考になればいいかなと思っています。

先に核となるテーマを言いますと、
「何かを批判するとき、別々の評価軸を混ぜてはいけない」
ということです。

健康上のリスク評価と人物評価を混同しない、本人への情報提供と他者への介入を分ける、社会通念と実害を分ける、健康情報を知る上で重大になるリテラシーの話ですね。

 

法令とか、社会通念とか、モラルとか、マナー。こうしたものって集団というコミュニティで生活するにあたって、そもそもは摩擦をなるべく減らしてみんなが上手く連携をとれるようにする、そうした目的があるかと思います。
物事の価値観や考え方には個人差があり、それが多様性ではありますが、みんながみんな勝手やってたらコミュニティという共同体としては成り立たないですよね。だから、みんなが納得できる落とし所、妥協点、最大公約数、そういうものが社会通念やモラルやマナーとなっていると、きくらげは思います。

しかし、これらは法令といった厳格なルールではなく、多少反れたからといって即社会不適合、なんてことはないと思います。
それこそ多様性のこの時代です。
社会通念への適応のしやすさには個人差があります。事情や特性を無視して、単に「普通に合わせられない人」と断じることも慎重であるべきでしょう。

さて前置きが長くなりましたが、こうした『社会通念』と『健康』の関係。

『法令・規則 他者への実害 本人への健康リスク 社会通念・マナー 単なる好き嫌い・不快感』
この5つを一度バラして考えよう、というお話です。

 

まずは健康を一旦置いといて、イメージしやすい実例で整理してみます。

たとえばですね、一昔前にはなりますが、電車の中でメイクをしている女性たちがかなり叩かれる事象がありました。
批判する側の言い分としては、「女の慎みがない」、「家で済ませるべき」、「電車はそういうことをする場所じゃない」、こうした意見が多かったです。

ではここで、切り分けて考えてみます。

まず法令。やっちゃダメなんて法令ありませんね。なんにも違反してません。なのでこの切り口では責めることはできませんね。

次に
「女の慎みがない」、これは価値観・ジェンダー規範の話ですね。
きくらげも一人の人間として言いたいことはわかりますが、言っていいことではありませんね。

家で済ませるべき、確かにそれも一理あるかと思います。ですが、やむを得えないケースもありますよね?実際に出先で支度をしなければならないケースってビジネスマンのほうが理解あるのではないでしょうか?
駅などの公衆トイレにも着替え用の踏み台が設置されてたりしますよね。
なので、出先でメイクすること自体を即批判とはいかないと思います。

そういうことをする場所じゃない、というのも難しいです。電車は確かに移動手段であることが第一目的ですが、お酒を飲んだり、駅弁を食べたり、おしゃべりしたり、ゲームをしたり、本を読んだり、音楽を聴いたり、様々なことしてますよね。なんでメイクだけダメ?批判する道理が弱いですよね。
「電車ですることではない」はこれはまさに社会通念の話ですね。

こうして切り分けてみると、理屈の上では批判できる要素が弱いんです。
それでも批判するのは、『単純に自分が嫌だから』。それだけということも少なからずあります。それだけのことに後から色々と理屈をつけても、穴が多いというものです。

電車でメイクのケースだと、非難するに正当な理由というものも確かにあります。

1つは、化粧品の粉などが飛び散りスーツに付着する。これは迷惑ですよね。
「粉が服につく」は他者への物理的実害です。
もう1つは、人によっては粉などでアレルギーがでる。
「粉で体調を崩す人がいる」は健康上の外部影響です。

こうして正当な言い分も含めて切り分けてみると、法令、価値観・ジェンダー問題、社会通念、物理的実害、健康上の実害、という5つに分けられます。

これらは全部、違うレールの話なんですよね。
ここが混ざると、
「私は嫌い」
↓
「マナー違反だ」
↓
「迷惑行為だ」
↓
「だからやってはいけない」
と、知らないうちに論拠が膨らんでいく。
でも本当の本当の最初は、単に「私は嫌い」という理屈抜きの個人の心情でしかない場合もある。ということが見えてくるかと思います。

きっとですね、こうした理由があって駅のトイレなどに着替え踏み台が設置されたりしたんじゃないかな、と想像してます。これはきくらげの想像でしかありませんが。

つまりですね、理屈じゃないバッシングに対応したんじゃなくて、実被害ケースに対応した、と、きくらげは判断してます。
しかし、それでも法令レベルではないんです。鉄道会社のほうでもとくに利用規約的なルールを示してない。
なので、バッシングはやはり違うと思うんですよね。しちゃダメってことじゃなくて、批判するのなら正当な理由を持ってこないと筋が通りませんよ、って意味です。

こういう、「多数派の不快感が、あたかも客観的なルールであるかのように扱われる」というのが、きくらげ個人的には問題かと思っています。
まぁとはいえ、被害というものが実際にあるのなら、それは控えたほうが望ましいといえるでしょう。法令でなくとも。

そして、こうしたケースは健康情報でも同様にみられる、という、ここから健康とモラルのお話です。

例に挙げたようなケースを、きくらげはいつも2つのケースに置き換えて考えています。

1つはタバコ。

まず、『タバコは、嗜好品であり、歴史の一部であり、文化である。しかし健康を害するおそれのあることも確か。』
ということですね。

歴史や文化である以上、全面的に否定するのは違うと思います。ましてや嗜好品です、そもそも健康を想定していないのだから、「健康に悪いから!」ってだけの批判には弱さがあります。
法令を守って喫煙してる以上、本人の自由であり権利です。それを他人が「健康に悪いから!」って止めさせようとするのは押し付けです。
勿論、法令を守り、受動喫煙など周囲への被害を及ばさないことは前提です。

ここで、やはりレールのごちゃ混ぜですね。
健康に悪いことは確かですが、さきほど言ったようにだからといって他人が禁煙を強要するのは違います。

健康に悪いから、あるいは臭いからって、「あいつは馬鹿だ!」と喫煙者の人格否定までするのも違います。

ようするに先ほどの論拠の膨大化と同様に、飛躍させすぎで言い過ぎなんです。そこにもっともらしい理屈をくっつけてはいるけど、どれも弱い。後付け。やはり、自分か嫌だから辞めさせたいだけ。
それはエゴというものです。

ただし、タバコが健康に悪いのは確かなので、自身の健康を害した、病気になった、医師に止められた、などの理由がある場合は少し変わってきます。
健康状態によっては、医師から禁煙を強く勧められることがあります。
しかし、それでも最終的に生活上の選択をするのは本人です。医療者はその選択も踏まえながら、可能な範囲で治療や助言を続けていくことになります。
病気というところまでいっても、結局は個人の判断に委ねられるんですね。だって法令違反とかでないですからね。

そして2つ目。
きくらげはお菓子などでも置き換えて考えます。
仮にケーキとしましょう。
『ケーキも、嗜好品であり、歴史の一部であり、文化である。しかし、たくさん食べたら健康を害するおそれのある。』
というものですね。

あれ?ここまでほぼタバコと同じですね。
ですが、この同じというのは勿論、タバコとケーキのリスク構造は同じ、なんて意味では断じてありません。
『本人が健康リスクを承知して嗜好するものを、他人がどこまで非難できるのか』という一点では、同じ物差しを当てて分解して考えることができる、という意味です。
タバコには受動喫煙という他者への健康影響がありますし、依存性の問題もありますが。一方、ケーキを本人が食べても通常は隣の人の血糖値は上がりませんので、そういう部分も違います。

そりゃそうです。だってタバコもケーキも嗜好品なんだからそもそも健康なんて想定してないし、歴史であり文化は否定できない。
でも、ケーキはタバコみたいに周囲に悪影響は与えない。でもそれだけで、毎日仕事の合間にデスクの引き出しからチョコレートとかちょいちょい取り出して食べてたり、コーヒーは加糖だったり、昼食後はコンビニスイーツつけたり、夕飯にお酒とスナック菓子だったり、食後のデザートだったり。
こうした習慣も、程度や頻度によっては健康上無視できないものになります。

しかし、ここが最大公約数ですね。ケーキや菓子類のほうが、タバコより社会的にはずっと広く受け入れられていますよね。
『ケーキは許容するけどタバコは許さない。お酒はまぁまぁ許す。』

どうでしょう?あまりにも主観的で、いえ主観が悪いわけではないのですけど、主観を他者に押し付けすぎてはいませんか?

そしてその押し付ける理由に、もっともらしい理屈をつけてませんか?

私がタバコとケーキを並べる本当の理由は、健康リスクの比較そのものじゃないんです。
『社会が何を許容するかは、健康リスクだけでは決まっていない』
ここです。

酒。 菓子。 喫煙。 夜更かし。 激辛料理。 危険を伴うスポーツ。 日焼け。 ジャンクフード。
健康だけを絶対基準にしたら、社会には「望ましくないもの」が山ほどあります。
でも人間は、健康だけを最大化するために生きているわけじゃありません。
楽しさ、文化、快楽、習慣、交流、自由、趣味。
そういうものとの交換条件として、人は多少のリスクを引き受けている。そういうものと考えます。

だから健康情報を扱う側が言えるのは、
「これはこういう健康リスクがあります」
まで。
そこから、
「だからそんなことをする人間は愚かだ」
に進んだ瞬間、医学・健康の話から『道徳判断』へレールが切り替わっている。
そして、飛躍させすぎてる、

栄養でもまったく同じですよね。
「砂糖の摂りすぎは健康上望ましくない」
と、
「ケーキを食べる人間は自己管理のできない人間だ」
には、とんでもなく大きな溝があります。

前者は健康情報。
後者は人物評価。

ここを混ぜてはいけない、そう思います。

きくらげは決してタバコ推奨派なんてわけではないです、ですが、きくらげ個人の主観としては間食なども度が過ぎれば十分すぎるほど健康害するぞ、と思ってます。元栄養士ですしね。

法令という社会のルール、みんなの印象で決まる社会通念、そもそもの好き嫌い、実被害、そういうの切り分けて物事考えていますか?

言いたいことを整理すると、

①それは本当に禁止されているのか。
法律なのか、施設のルールなのか、単なる慣習なのか。

②誰かに実害があるのか。
健康被害、物理的被害、権利侵害などがあるのか。

③本人だけが負うリスクなのか。
健康リスクを本人が引き受けているだけなら、情報提供と人格批判は分ける。

④自分が嫌いなだけではないか。
不快感そのものは否定しない。ただし不快感を社会正義に変換しない。

です。そして最後に、
きくらげは、『健康に良いか悪いか』と、『人として良いか悪い』かを同じ物差しでは測りません。
健康上すすめられないことは、すすめられないと伝える。 他人に実害があるなら、そこは止める理由になる。
でも、本人だけが引き受ける嗜好や選択まで、「健康に悪い」という理由だけで人格ごと否定しません。

「まぁ健康上望ましいとはいえないけど、嗜好品だしね、そこは自分で身体と相談してお好きに」

です。
ただ、たとえば脳梗塞になったのにタバコもお酒も暴飲暴食も止められないとなると、ちょっとそれはどうなんですか……とは思いますが、少なくとも自分からあれこれは言いません。相談や愚痴を受けた場合は、きくらげの考えとして話します。
ですが、「性格を治せ!」みたいな論調は決してしません。

自分の中で評価はする。でも、評価したからといって相手を矯正する権利まで自動的に発生するわけではありません。
ここを勘違いしてはいけないと思います。

「判断する自由」と「介入する権利」を分けて考える。

「その生活は健康上よろしくないな」と思う自由はある。
でも、
「だから私があなたを叱って矯正してよい」
にはならない。自動的にそうなってはいけない。

介入するには、本人から相談された、あるいは医療者として助言する立場にある、他人に実害が出ている、法令や施設規則に反している、そういう介入する根拠が別途必要だと思います。

・健康上の評価と道徳判断を混ぜない
・不快感と実害を混ぜない
・個人的評価と他人への介入を混ぜない

この3つが言いたかったことです。

健康は大切です。 でも、健康は人間の価値を決める道徳ではありません。
だからまず、何の話をしているのかを切り分ける。 法令なのか。実害なのか。健康なのか。マナーなのか。それとも、ただ自分が嫌いなのか。
そこを一度分けてから考える。 それが、きくらげなりの物事の見方で、今回のきくらげメソッドです。

 

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